「東海第一の大みなと」を
支えた廻船問屋
遠いむかし、北上川の河口にある小さな港町だった石巻港――。
その石巻港が米殻の積出港として栄えるようになったのは約400年前。江戸時代初期の1620年代に、伊達政宗の命を受けた川村孫兵衛が北上川の掘削を行ったのがはじまりです。
1770年代後半には石巻港を出入りする御穀船は50隻を超え、江戸へ積み出す米は年間20万石(約3万t)にも上り、「東海第一の大みなと」と称されるようになりました。
港は、荷揚げや船頭への宿の提供などを生業とする廻船問屋で賑わい、その廻船問屋のひとつに嘉治久(かじきゅう)がありました。それが、カイリクの起源です。
戦時中の経済統制と
独占事業のもとで
1912(大正元)年、仙台軽便鉄道 小牛田-石巻間が開通し、石巻駅が開業。それまで船でしか運べなかった石巻や渡波、牡鹿半島などの海産物を鉄道輸送できるようになり、石巻駅周辺には鉄道貨物を取り扱う小運送業者が誕生しました。廻船問屋を営んでいた嘉治久も嘉治久運送店として新たなスタートを切り、カイリクの礎を築くことになります。
その後、国による運送業者の乱立取り締まりがはじまったのを機に、1924(大正13)年に嘉治久運送店は2社の同業者と合併し、石巻共同運輸株式会社を設立。しかし、一駅一店の指定運送取扱人制度などにより経済統制は強化され、敗戦直前の1945(昭和20)年8月1日、石巻共同運輸は日本通運と統合、日本通運石巻支店となりました。
リヤカー1台、荷馬車3台の
小さな会社
そして、ついに終戦――。戦時中の経済統制が根強く残る社会で、生きるための物資の生産とヤミ取引が盛んになりました。こうして次第に自由経済へと移行するなか、経済統制と独占事業の不合理性が指摘されるようになり、通運事業でも一駅一店制、一社独占の理不尽さを糾弾する声が出はじめたのです。
そんな最中の1947(昭和22)年、石巻に株式会社荷造運搬社という風変わりな名前の会社が誕生します。後にカイリクの第2代社長となる佐藤久が立ち上げた、資本金5万円、従業員9名、リヤカー1台、荷馬車3台の小さな小さな会社でした。